DIARY

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...... 2008年11月20日 の日記 ......
■ 訃報   [ NO. 2008112001-1 ]
ついにこの時がきてしまいましたわ。

こんばんは、喪のレカ郎です。

その時は突然訪れた。
昨日の日記を書き終えた後の日付が変わる前、オッカサンが部屋にやってきておっちゃんの死をワシに告げた。
今まで散々余命宣告とか危ない時もあったりした中だったもんで正直あんまりビックリはせんかった。でもやっぱ「来る時は来たか」と思った。

オットサンは仕事で疲れてダウン。酒飲んでないワシとオッカサンで急遽病院へ行くことに。
0時過ぎ、雪が降りしきる圧雪アイスの中病院へ。当然ワシの相棒は夏タイヤなもんで無理だったもんでフリードで。
いや、ほんと今日実は迷ったんですわ。万が一ってことがあるから変えようかと。やっとけばよかったんだわな〜。

久方ぶりの圧雪アイスの路面、外は少し吹雪気味。暖房をガンガンにしても寒い寒い。こんな時に死ななくても・・・。

きっとこの雪の中をおっちゃんはいつもの別れ際の口癖「じゃあな!」と去って行ったんでないかと思いますわ。でも・・・降り過ぎだから!

0時20分頃病院へ到着。数台しかいない駐車場に真新しいタイヤ跡を新雪につけながら駐車場へ。
その後玄関を開けてもらって院内へ。静まり返った院内、エレベーターで6階へ。
到着していつもの部屋のドアを開けると夫人殿が目に飛び込んでくる。
意外と平静を保った感じでいましたわ。
で、おっちゃんに対面。
あらぁ〜・・すっかり物になってしまって・・・。
人間は生きてる時は人やけど、死んだ途端にロウ人形のごとく物化するもんですわ。
血の気の引いたおっちゃん、でも寝てるようにも見える。今まで入れてきた点滴類がまだ入ったままでまさに今死んだという状態というか、昏睡でもおかしくない感じすらする。
しかし、ギョロンとした目が特徴で「ドングリおじさん」と呼ばれて来たおっちゃんのその目は固く閉ざされ、二度と光を見ることがなくなってしまっている。
生々しい死というのはもう14年前になるんやけど、ワシのじいさんが死んだ時以来で、改めて死というものに直面する。

ほんの昨日(18日)まで動いてたのに今はピクリとも動かない。まさかアレが最後になろうとは思ってなかった。ってのは、少し悪いとは言ってたものの、今すぐって感じではなかったもんで。

夫人殿が言うには、アレだけ悲惨な目にあってきた中、最後窒息死とまで言われてた中、苦しまず「す〜」っと逝ったんだとか。
その前に苦しかったのか、目を乾くまで見開いてたらしいんやけど、そのすぐ後だったらしい。

ワシ自信、呼吸が満足に出来ない苦しさってのを今年の手術の時、術後覚醒した時に入ってたベンチレーター(人工呼吸器)で体験済みなもんで、どれだけ息苦しかったかってのは少しは想像つくんですな。いや〜ほんと苦しかったでしょうな。

しばらくして、看護師が処置と体を拭いてやろうとやってくる。
ワシらは一旦退避。その後呼ばれて再び部屋へ行っておっちゃんを拭いてやりますた。
ワシは最後おととい帰り際に握手した左手を拭いてやったんやけど、まだすこ〜しぬくもりが感じられましたわ。死後硬直でカンカラカンになる前だけに、出来のいい人形に見えるほどですわ。
少し血色がよければムクっと起きてきてもおかしくないほどですな。

でも体を拭いてる時、改めて上半身の全容を見たんやけど、ひどい!あれはひどい。
もうハッキシ言って人間じゃないやせ方、人間の体じゃない。
人体模型に全身タイツでも着せた感じですわ。骨という骨が皮膚を通してハッキリ分かるほど。皮膚にシワがよってほんとなんか着てるように見えるんですわ。
あの体がおっちゃんの壮絶な戦い、苦しみを物語ってるんだな〜と改めて思いましたわ。5月にワシらで温泉に行った時見たよりまだまだひどい。あれはちょっともっと近い親戚とかには見せられないかも。

体を拭き終わった後、花柄がついた着物を着せるかってことになったんやけど、おしゃれなおっちゃんなだけに、自分の服でってことになって、シャツから靴下まで全部着て帰る準備。
その時体をずらすのに数人でシーツの端を持って移動させたんやけど、人手があったとはいえなんと軽いこと・・・。半月ほど前に計った時には43kgだったらしいから、もっと減って今は30kg台にまでなってたかもしれんわな。

そのうち搬送の準備を開始。部屋を片付けたりですな。
2時半頃に葬儀屋が来るってことになったもんで、40分ほどおっちゃんを囲んで3人で少し色々と話ですわ。
A 型もA型、AAだと思われるおっちゃんは、葬式の段取りまでぜ〜んぶ決めてたんだとか。後は日付を入れればいつでもOKな状態になってて、もう誰がなんの 役ってのも決まってるらしい。会場まで指定してあるんだとか。それは石狩にある会館。ってのは、親戚の祝い事や集まり、時にはワシのひーばーさんの葬式な んかもそこでやってたんですな。で、ワシもやるなら思い出深いあそこがおっちゃんとしてはいいんじゃないかと思ってたらやっぱりそうらしい。
なに せ親戚ごとを全て仕切ってた人やから思いで深い場所なんでないかとワシは思うわな。わけの分からんホールでやるより、少し・・・いや、かなりぼろいけどい いんじゃないかと思って。葬式ってワシはそういうもんじゃないかと思うんですわ。故人との思い出なんかを思い出したり、語り合ったりする場だと思うんです な。

ちょっとこの天気でわざわざ雪の多い石狩まで行くのはゆるくない話やけどさ。

2時半前、葬儀屋が到着したとのことで、おっちゃんはストレッチャーに移されてワシらと荷物と共に地下へ。
死んだ人が行くところその1の霊安室ですわ。
いや〜初めてあんなところ行ったけど・・・行きたくない場所ですな。なんか行きたくないオーラがビンビンでニブチンのワシでもそう思うほどですわ。
薄ら寒い霊安室では担当のドクターが待ってて、2人の葬儀屋と看護師と共に部屋へ入って行ってワシらは戸を閉められてシャットアウト。一体なにをなさってるの?
ちょっとして葬儀屋のストレッチャーのようなものに移されていよいよ外へ。
−4度のクソ寒い雪の降る中、おっちゃんがまず寝台車に乗せられてから、荷物を載せ、最後に夫人殿が乗ってハッチが閉められる。
看護師2人、担当のドクター1人とワシら、計5人で見送り。
こうしてついにおっちゃんは無言の帰宅、家路についたのであった。

おっちゃんが出るとき、止んでた雪が再び降り出し、おっちゃんを乗せた搬送車はその雪の彼方に消えて行きますた。

さて、そんな今日は仮通夜とはいえ1日拘束されるものでもないもんでいいたって普通ですわ。
13時に起きても朝7時に寝たもんで眠い眠い・・・。
その後外を見たら
こちら

「!」

思ってた以上に降りやがったし、残ってるし・・・。
ん〜と考えた末、駐車場から夏タイヤじゃ出せないと判断、そこで早速タイヤ交換開始。
FFなもんでとりあえずは前2本だけ変えればいいわけですわ。
油圧ジャッキとタイヤ2本を担いで行って駐車場で作業開始。しかしまあ駐車場まで不便でしゃーないわ。

フロントだけジャッキアップしようと思ったら・・・

ジャッキが入らねえ!
なぜだ!車庫なら余裕で入るってのに!
どうやら砂利ってのが災いしてるらしい。あーもー!クソハラタツ!

いい加減にせ!と地面を掘り下げてジャッキを入れてジャッキアップ。
フロントだけ上げて両方交換ですわ。しかし、レンチの中に雪が入ってナットにはまらなくなるのは勘弁してくれってばよ。

前2本をスタッドレスに変えたところで夏タイヤと交換セットを積んでウチへ。
車庫へ入庫させて残るリアの交換ですな。
リアもリアだけジャッキアップさせて両方交換・・・と思ったら

狭すぎて左側交換不能
ワシが車庫と車の間に入ったら身動きが取れないほどの狭さ。こんな中でタイヤなんぞ交換できるわけも無く、クソめんどくさいことに一旦ジャッキを下ろして車を右寄せにしてやり直し。くそ〜めんどくせぇー!

やっと終わったところで今度はホイールの洗浄。なんだかんだ言ったところで夏タイヤに変えなおしてから200kmほど走ってたもんでフロントはいつもどおりブレーキダストの洗礼で真っ黒。
というわけで、寒い中ホイールの洗浄ですわ。
洗い終わったホイール・・・早速凍ってきてるんですけど。

やっとこ全部終わったところで16時、すでに路面がアイスバーンになってきてる中職安へ。もし今日いいのがあって応募ってなったら応募書類書いたり出したりできるのは恐らく今日がラストなはず。そう思って無理にでも行ったわけですな。

まあ、外はすでにこんな感じですわ
こちら
こちら

まさに前に出したことあるけど薬師温泉のコレですわ。こちら


30分かかって職安へ。まあでもこんな路面状況の中でも夏でもありえないこととかやってくるバーロー、降りてって「てめー、葬式してえのかこのウスラトンカチが!」ってぶっ飛ばしてやりたくなりますわ。

そこまでしてやっと職安到着

どれどれ、今日の獲物はどーれかな?



ない!



な、なんだとー!!!

というわけで、再びアイスバーンの中帰ることに。くそ〜こんなんだったら無理に、そして無駄にガソリン使ってまで来るんじゃなかった・・・。
と泣きながら帰るのであった。

帰ってからまっすぐ駐車場へは入れず一旦ウチへ。ってのは一旦積んだものの、撤去した着氷を落とすゴムハンマーとタイヤロックを積み込みですわ。
早速タイヤ回りに着いた着氷を撤去、これをやっておかないと下手するとハンドルが切れなくなっちまうんでの。それに早速路上では融雪剤撒いてたし。

その後駐車場へINした時も今日、今シーズン初でサイドブレーキなしでギアとタイヤロックだけの駐車方法に。ってのは水気でサイドブレーキを引いてあると水が凍ってしばれてしもてサイドブレーキが解除できなくなってしまうのを防ぐためですわ。
ずっと前に観光バスがこれが原因で車両火災起こしたってこともあったりして。

19時半過ぎ、オットサンが帰ってきたところで仮通夜へ。
今回ワシは運転なし。いや〜札樽道を自分で運転しないで通ったのはいつ以来?
で、高速を降りたら・・・

ミラーバーン

うわーうわー!やりすぎだよこの凍り具合。
路面が鏡になってて顔が写るほど。コレだから冬は・・・。

到着したらウチがラストだったらしく弔問客はなし。
おっちゃんは深夜に見た時と違ってカンカラカンになってましたわ。
でも床暖が入ってたんやけどいいんかね・・・。一応死体ですので腐ってしまわんかと・・・。
で、なんといっぱい作ったから食ってといわれ、カレーを食うことに。あの〜一応夜エサ食ってきたんっすけど・・・。それでも完食だよレカ郎さん。
色々ビールとか寿司とか祭壇に上がっておったけど、死んでからじゃ食えないからねぇ〜・・・。

んで、40分ほどで撤退。帰りもミラーバーンですわ。なんぼスタッドレスが新品だろうとなんだろうと、あそこまでビカビカなら何だって滑るわな。
んでもって明日からの一連の葬式に備えるのであった。

さてさて、ワシとおっちゃんを改めて語ると、ワシのおっとさんの叔父さんなんですわ。
だからめちゃくちゃ近い親戚ってわけでもないんですな。でも血縁はあるってやつですわ。
ま、生まれてからそんなに濃い付き合いをしてきたわけでもなく、親戚の行事があるときにおもろいおっちゃんがおるな〜って感じだったんですわ。

それゆえ、年1回会うか会わないほどになってたんですな。
しかし、事態が急展開したのがなんとワシの入院。そもそも去年の今頃に食道がんの手術をしたんやけど、その辺りからなんですわ。ほどほどに近いところ、まあ死んだ病院なんやけど、そこでやったもんだから、仕事帰りに寄ったのが始まりなんですわ。
その後、3月にワシが入院した時、思いもよらないことになんと毎週のように来てくれてたんですわ。今思えばワシがおっちゃんの最初の入院の時に顔出してたからかの〜とは思うんやけどさ。
その後にワシが退院して最初になんかでおっちゃんのウチに行った時、突然おっちゃんから温泉の話が出たんですわ。
そして5月のGW明け、ワシとおっちゃんという異色のカップルでワシの第二の庭、ニセコへ一泊で行ったのは記憶に新しいところ。
なんとコレがおっちゃん最後の旅行になってしまったんですな。

その後6月に再入院した時に、今の喉のガンが発見されてもう末期、そして余命宣告をされたのがこの時なんですわ。これも結構記憶に新しいところですな。この時で6月7月中って言われてたんですわ。
その後入院、治療になったわけやけど、その病院と少し都心よりに離れた同じ系列の病院を行ったり来たり、入退院の繰り返しだったわけですな。

ワ シとしては、温泉にまあ車出して連れてったのはワシやけど、資金面で面倒みてもらったって義理もあるけどそれ以上に、入院中にわざわざ石狩から来てくれて たって義理の方がはるかにワシの中ではでかかったもんで、今度はワシの番だってなわけで、毎週のように行ってたんですな。入院患者とか弱ってる人ってのは 金や物じゃなく、一番は人のぬくもりだとワシは思うんですわ。少なくともワシはそうだから。
だから、まだワシが止みあがりだってのに元主治医の介 助したり、おっちゃんのところに顔出したりしてたのはそこなんですな。これは一度入院して苦しんだ人にしかわからない、分かりえないことなんですわ。だか ら前にもワシはここで言ったかもしれんけど、どんなに勉強しても、どんなにがんばっても、どんなことをしても、病人の気持ちや思い、苦しみ、内面外面含め た痛みは病人になった人にしかわかりえないってことなんですな。

そんなわけもあり、そして暇人だけにせめてコレぐらいはしてやらないと・・・という思いもありで積極的に行くようにしてたんですわ。「なんだあいつ、暇なくせにろくに来やがらない」って思われたくないってのもあるし、実際病人ってのはそう思うし・・・。
ワシは医者でも看護師でも介護師でもないし、おっちゃんを完治させてやる力も何も無い。でもワシにも出来ることはないか、暇人だからこそ出来ることはないかと考えた時、少しでも顔出してやるってことができるってことを思ったんですな。
時に病人というのは孤独なものだから。

そして6月7月にも・・と言われてたおっちゃんが、何度も入退院を繰り返してはいたものの、その期限を過ぎても生き続けたわけですわ。

その間、退院して石狩へ帰るという時、車持ちの暇人だからこそ出来る送迎をして少しでも負担を減らしてやったりと、その時その時でワシに出来ることで求められたことでベストを尽くすようにしたんですな。

そして9月の退院の時、こっちからじゃなく、おっちゃんの方から送ってくれとの要請があってウチまで送って行った、コレがおっちゃん最後の帰宅であり、その最後の帰宅をワシが手伝ったわけですわ。

そして10月、あまりワシとしては今のところは気分のいい場所じゃないところにある遠い方の病院へ入院。ワシはその頃になると就活を活発化させてたもんで、気づけば1週間以上開いてしまったりという時があったりもしましたわ。
まあワシ自信、ちょっと気分的に・・・ってのと、遠いってのがあったのも事実。
ただ、面接の帰り、いっつもジャージとかでラフなかっこばっかしで行ってたもんだから、1回はあまり見せたことが無いスーツ姿を見せてやろうと寄ったんですわ。今思えば見せてやれてよかった・・・と思いますわ。

そしてもう治療方法がないってことで、結局最初に手術し、ウチからも近い病院のホスピス病棟へ転院。
次の日に突如山場を向かえ、一度はダメだと誰もが思った中、峠を越えて復活。2、3日中って言われてたのが1週間に伸び、さらにおっちゃんも水を飲めるまでになったんですな。
んで、おととい見たときには少し生きは下がってたものの、今すぐって感じじゃなかったもんで「まだいける」と踏んでたんですわ。その油断があって昨日は先週金曜から通い続けてた病院も行かなかったんですな。
そうしたらその時はいきなり訪れたわけですわ。

ワシとしては、夫人殿は「いや、これだけ来てくれてれば十分」とは言ってたものの、近くまで行っておきながら「いいや」と寄らずに、これだけ通ってきてたのに最後の日に行かなかったというけじめの悪さが心残りなんですわ。
たぶんおっちゃんも「十分だ」って言うとは思うんやけど、それでもワシの中ではなぜ!ってのがあってけじめがつけられなくて少しはがゆい思いをしましたわ。
ってのは今までのワシがそうだったから。
ワシってヤツは何においても中途半端、そして終わり方が悪くけじめがつけられないから。これをまたやったのかと思うとワシ自身にワシがガックシというか落胆というか。
それに、葬式の手はずまで全部やってたおっちゃん、最後に身内にお別れまでしたと思うんですわ、この前危ないってなって集まった時に。
そこまできっちりしてたのに、心残りがないようにしてたのに、最後まで気にかけてたワシの就職が決まらずで、心残りを残してしまったわけですな。
出来れば最後はいい報告を聞かせて安心させてやりたかった、しかしその一方ではどうにもならない現実というものがある、なかなかワシも苦しいものがありますわ。

それにしても67歳、享年68歳というまだ今じゃ若い部類に入る歳にして死んでしまったおっちゃん、最低10年は早かったな〜と思いますわ。
そ して死んだおっちゃんを見て思ったのは、死亡率100%という神が我々生きとするものに与えたものを実感したのと、ワシも、ワシの両親も、兄弟も世の中絶 対という言葉はないとは言うものの、死ぬということだけは絶対訪れる現実であるということを改めて確認させられた気がしましたわ。

K.S殿、愛称「ドングリおじさん」 享年68歳 あなたが病の苦しみと死への恐怖から解放されたことへの祝福と生きとした時のあなたの功績をたたえます。

降りしきる寒い雪の中、静かにこの世を去って行ったK.S殿に祈りを。

No.(1351)

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